高野槇専門店 いづみ



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店舗へのアクセス


























かつて棚田が広がるのどかな山間農村。今ではその面影はなくコウヤマキの山となっています。

店舗情報




相の浦の農園で育てたコウヤマキを直売店で!

代   表 和泉吉記  Izumi Yoshiki
住   所 〒648−0211
       和歌山県伊都郡高野町高野山53
電   話 0736−56−2875
F  A  X  0736−25−5270
メ ー ル  koyamaki-izumi@kem.biglobe.ne.jp
農   園 和歌山県伊都郡高野町相の浦399
店舗設立 平成10年8月1日
事業内容 コウヤマキの栽培と販売、通販
営業時間 9時〜17時
定 休 日 不定期(冬季休業あり)


必要な分だけを農園から!   だから新鮮

  今から40数年前、種から育てられた相の浦のコウヤマキは、供花として最適の木に育ちました。当店は、仕入れによる販売ではなく、農園で自
ら育てたコウヤマキを必要なときに必要なだけ採取し販売する直売店です。
 農園としては小規模で、大量の需要には対処できませんが、小規模だけに生育状況がわかり、新鮮なコウヤマキを早くお手元にお届けすることができます。
 高野山へ御登嶺の際には、店舗へのアクセスを参考にお立ち寄りいただければ幸いに存じます。


相の浦(あいのうら)のコウヤマキ

高野山近郊の村落では、往古よりコウヤマキを供花として高野山に供給してきましたが、それを専業とするほどではありませんでした。
従来の実生のコウヤマキの苗木を山で集め、畑で育てていたものを、昭和40年初頭、相の浦では、他の村落に先駆け、種子より栽培することに着手。試行錯誤しながら苗木の
商品化に成功。同時に山や休耕田に植林し、その枝を供花として高野山に供給するようになりました。以来40数年、相の浦では、コウヤマキの栽培面積を増やし、重要な地場産業となるとともに村落全体が「コウヤマキの里」になっています。


相の浦の歴史

 高野町の字なす一地区で、高野山の南方に位置する山間集落。歴史は古く、弘仁7年(816)、弘法大師が、高野山を嵯峨天皇より下賜されて以来、高野山(金剛峯寺)の荘園「花園荘」の一村落として発展してきました。
 山間集落だけに産業は主に農業と林業で、耕作面積が狭い上に、高野山(金剛峯寺)からの年貢の取立てが厳しく、小作農民などの荘民たちの生活は困窮していました。
 一方で花園荘の最大の特徴である高野山への供花の供給という役目がありました。この荘園には半僧半俗の人が多く住み、高野山で法要があると、時節の花「時花」を山に分け入り採取し、高野山へ運んでいました。半僧半俗の人たちは、後に花摘道心(はなつみどうしん)や夏(華)衆(げしゅう)などと呼ばれる僧侶へと代わっていきます。
 明治2年(1869)、金剛峯寺は今まで分かれていた僧侶の高野三方(学侶方・行人方・聖方)を廃止し、統合しました。花摘道心や夏衆もその対象でした。さらに同四年(1871)、境内一円を残し寺領の大半を国に奉還して、1000年余り続いた荘園運営を終わらせました。
 昭和になり農地解放後は小作農民が耕地を取得しますが、村落の生活は困窮を極め、新たな存続を模索していかなければならなくなりました。 高度成長期を迎えると、職種の多様化で農業や林業から離れ、過疎化が深刻化していきます。それでも地場産業をと、昭和40年初頭、始めたコウヤマキの栽培が成功し現代に至っています。
 戸数10数戸、その大半が高齢者で限界集落となっていますが、元住民が他地域に住みながら相の浦でコウヤマキの仕事に従事しています。




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