高野槇専門店 いづみ



トップページ






一見松によく似るが葉の先端にはトゲがない。






寺島良安が著した『和漢三才図会』にはコウヤマキが描かれている
〈三一書房『日本庶民生活史料集成 第二十九巻 和漢三才図会(二)』より〉









夏の日差しを避け、苗木は寒冷紗で育てる。




樹高約160cmの若木。ここまで育つのに16年以上かかっている


コウヤマキについて




●コウヤマキ科コウヤマキ属 常緑針葉高木 日本固有種
●分布―本州(福島県以南)、四国、九州の海抜600〜1200mに自生
●世界三大公園木(コウヤマキ、ヒマラヤシーダ〈ヒマラヤスギ〉、アローカリヤ〈ナンヨウスギ〉)、木曽五木(ヒノキ、サワラ、ネズ、アスナロ、コウヤマキ)、高野六木(モミ、ツガ、スギ、ヒノキ、アカマツ、コウヤマキ)の一つに数えられています。
●用途―材質は樹脂が多いため水湿に耐え、桶類、浴槽、杭などに使用されます。古くは、船材、橋桁にも使用。樹皮は桶、樽などの漏水防止剤、または船などの浸水防止剤として使用されていました。
●その他の用途―供花、生け花の花材、緑化樹、庭木など


総本山金剛峯寺や壇上伽藍に設けられている木柵はコウヤマキ材。




「コウヤマキ」の名の由来

高野山に多く自生していることからこの名が付けられたとされています。はたしてそれだけで名前がつけられるでしょうか。木曽五木の一つにも上げられるほど有名な植物ですから「キソマキ」でもよかったわけです。それでは何故、高野山を意味する名を頭につけて命名したのでしょうか。何かが起因しているように思えます。そのあたりを考えてみたいと思います。
では何故、高野山なのでしょうか。その理由の一つに全国的に有名であったことがあげられます。弘法大師が高野山を開創して以来、多くの信仰を集めつきました。その高野山を宗教的に有名たらしめたのが他ならない高野聖(僧侶)の布教活動だったのです。
それだけではありません。高野山とコウヤマキとの関わりは深く、寺院の造営の材料として欠かせないものの一つとして使用されてきたほか、樹皮は船の浸水防止剤として全国に普及(『紀伊続風土記』による)していました。これが高野山とコウヤマキの名を全国的に広めた一つではないかと考えます。なぜなら、木曽五木は、江戸初期から中期にかけて尾張藩の政策で「留山」に、さらには藩の御用材以外は伐採が禁止され、停止木となったのです。だから世に普及した高野山と木曽のそれとでは人々に知れる機会の差が大きかったといえます。
コウヤマキははじめにどのよう呼ばれていたのでしょうか。まず高野山では『紀伊続風土記』を見てみると「槇」や「艨vの字を用い、マキと読んでいます。
江戸中期の漢方医、摂津の城医であった寺島良安が著した『和漢三才図会』には「槇」と書いてママキと読み、俗に「真艨vとも書くと述べています。さらに「高野槇」と書し挿絵で「狗槇」と比較し、説明では「高野槇 紀州高野山より出づ」〈三一書房『日本庶民生活史料集成 第二十九巻 和漢三才図会(二)』〉と、その産地までが加えられています。俗称ではありますが、江戸中期にすでにコウヤマキと呼び、高野山との関係を強調しています。現代の植物名の由来や和名・漢字名に通じるものがすでに成立していたことが分かります。
さらに刊行が同時期になる貝原益軒著の『大和本草』には、「金松」と書し、俗称の高野艨iコウヤマキ)のことであることを説明しています。そしてその中で高野艪ヘ高野山に多いために名づける旨が記されて、名の由来が明確に表されています。
これらの書物が影響して高野山の槇が一般化しコウヤマキという現代の植物名になったものと思われます。
蛇足ですが、高野山を意味する「コウヤ」の名のついた植物が多くあります。コウヤノマンネングサ、コウヤグミ、コウヤカンアオイ、コウヤシロカネソウ、コウヤタンポポ、コウヤマンサク、コウヤミズキ、コウヤボウキなど。


コウヤマキの樹皮。かつては良質の漏水・浸水防止剤として使われていた




供花としてのコウヤマキ

高野山は、金剛峯寺を中心として発達したところです。宗教儀礼として仏前に供える花は欠かせません。そこで活躍したのが、花摘道心(はなつみどうしん)や夏衆(げしゅう)と呼ばれた僧侶たちです。彼らは法要や行事があると山に入り、その時節の花(時花)を採り、高野山に供給していました。その中にコウヤマキが含まれていたと考えられます。
仏前に供える花は、香りがいいものとされ、コウヤマキは「香木」の一つに数えられています。寺島良安の『和漢三才図会』には、「香木類」の中でコウヤマキを紹介しています。「人小さき枝葉を折りて仏前に供する」〈三一書房『日本庶民生活史料集成 第二十九巻 和漢三才図会(二)』〉とあり、当時の信仰や風習を知る上で貴重な資料で、このころすでに一般的に供花として成立していたことが分かります。



採集から栽培へ

かつて高野山には、コウヤマキを販売する露店数十軒が軒を並べていました。高野山近郊の村落から仕入れていたもので、そのほとんどは山に自生している自然林の枝でした。時代とともに需要が増え、自然林だけではまかない切れなくなりました。昭和40年初頭、近郊の村落、相の浦で始めて種子から苗木を育て出荷し、また山に植林し、その枝を花として出荷するようになりました。この方法が近隣の村落に伝播し、現代に至っています。


発芽して3年目の苗木。樹高わずか3cm。出荷するまで6〜7年がかかる。







トップページ