高野七弁天を訪ねて


はじめに
七福神の中で音楽・弁舌を司る神としたよく知られる弁財天。仏教では天部(てんぶ)の尊として、神道では福をもたらす神として広く信仰されています。
高野山には、『高野七弁天』と呼ばれ、山内七ヶ所に弁財天社を祀り、往古より信仰されてきました。この『高野七弁天』を訪ねてみました。


弁財天の起源
弁財天は、梵名(ぼんめい)をサラサバティーといい、もともとヒンドゥー教の神で、サラサバティー河を神格化したものとされています。知恵、弁舌、音楽をはじめとする芸術の女神として崇められる反面、勇気、戦勝、増益(そうやく)の女神というめんも備えています。やがて仏教に取り入れますが、ヒンドゥー教の性質をそのまま持ち、天部の尊となるのです。密教では、胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)外金剛院(げこんごういん)の西方に天部の女天尊として配されています。
弁財天の像形には、二臂(にひ)像と六臂像もしくは八臂像があります。二臂像は琵琶(びわ)をもつ姿でよく知られ、福徳、知恵、音楽などの平和の女天です。八臂像は左手に弓・刀・斧(おの)・羂索(けんじゃく)、右手に箭(せん)・三股戟(さんこげき)・独鈷杵(とっこしょ)・輪(りん)を持つ軍陣(ぐんじん)の天女です。


宇賀神との習合
日本に伝播した仏教は、平安時代、日本固有の神々と習合(しゅうごう)します。弁財天も例外ではなく、宇賀神(うがじん)の持つ性質と弁財天が同じことから習合するのです。
宇賀神は、倉稲魂命(うけのみたまのみこと)または保食(うけもち)神といいます。「う」もしくは「け」は穀物を意味し、五穀を司る神でしたが、蛇のことを「宇加(うか)」といったことから、宇賀神が蛇に転じ、財富の神になります。
偽教(ぎきょう)とされる『宇賀神王陀羅尼経(うがじんのうだらにきょう)』などの説から蛇を宇賀神とし、財宝の神であることから、弁財天と習合して、蛇は神の使いとするに至ったのです。そこで頭に蛇と鳥居をいただく八臂の宇賀弁財天や、単に翁(おきな)あるいは女性の頭をした蛇体の像が生まれます。


高野山の七弁天
お大師様は、『高野山四至敬白文(こうやさんしじけいびゃくもん)』の中で、高野山のことを「山の状(かたち)為(た)らく、東西は龍の臥(ふ)せるがごとくして東流(とうりゅう)の水有り」と表現されています。「東流の水有り」とは、山内を流れる御殿川(おどがわ)のことで、西の端にある弁天岳(べんてんだけ)を源流とし東に流れています。
「七弁天」は、御殿川の源流である弁天岳の山頂に祀られているのをはじめ、そこから延びる尾根や支流など山上の重要な水源となる七ヶ所に小祠(しょうし)が祀られています。
「七弁天」とは、嶽(だけの)弁財天社、祓川(はらいかわ)弁財天社、湯屋谷(ゆやだに)弁財天社、首途(かどで・門出)弁財天社、尾先(おさき・剣先〈けんさき〉)弁財天社、綱引(つなひき・船引〈ふなひき〉)弁財天社、丸山(まるやま)弁財天社の七社をいいます。そのご神体のほとんどは、宇賀神もしくは宇賀弁財天であるといわれています。

(華苑Vol.12 平成15年3月1日発行より)
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          高野山みてある記@―
嶽弁財天社
嶽(だけの)弁財天社は、高野山の外八葉(そとはちよう)と呼ばれる山の一つ弁天岳(標高984.5m)の山頂に祀られています。ここは大門からと女人堂からの二つの登山道があって、参道は女人道でもあるのです。大門からの登山口には大きな朱塗りの鳥居が建ち、表参道となっていて、山頂までは約1kmほどの山道です。
参道に立ち並ぶ鳥居を幾つも潜って登って行くと、途中に札場跡(ふだばあと)がありました。ここは、九度山町の慈尊院(じそんいん)からの町石道(ちょういしみち)が大門へと続いていますが、大門近くの上り坂(化粧坂〈けはいざか〉)が急な傾斜となるため、途中からこの札場跡に通ずる新しい道が作られたのです。現在はこの道は途絶えていて通ることができません。
参道を登ること約30分、頂上に到着。ここから東南の方角に伽藍(がらん)の根本大塔(こんぽんだいとう)が見え、その後方には熊野へと続く熊野道(小辺路)が望めます。
杉木立に囲まれて建つ嶽弁財天社は約1m四方のこじんまりとした社ですが、謂れのある弁財天なのです。『紀伊続風土記(きいしょくふどき)』によると、お大師様が、高野山に七つの弁財天を勧請(かんじょう)した一つといわれ、天川(てんかわ・奈良県天川村)の弁天で、千日参籠(さんろう)したときに用いた宝珠(ほうしゅ)の一つを仏法紹隆(ぶっぽうしょうりゅう)のため、この山に埋めたと伝えています。
かつて「岳の一本杉」という大木が聳え、そこには妙音坊(みょうおんぼう)という天狗が棲み、社を守ったという伝承も残っています。


祓川弁財天社
祓川(はらいかわ)弁財天社は、大門より少し東に歩いたところにあり、西院(さいいん)地区の児童公園を望む山の中腹に鎮座(ちんざ)します。
社は1m四方で、ご神体は頭上に宇賀神をいただく八臂の宇賀弁財天だそうです。社の左には、正一位鏡稲荷大明神(しょういちいかがみいなりだいみょうじん)と正一位稲荷大明神が合祀(ごうし)された社と、正一位玉房(たまふさ)稲荷大明神を祀る社が二社並んでいました。
祓川弁財天社は、最初からここに祀られていたわけではなかったのです。高野山の古絵図などには、大門の北側のもっと奥まったところに描かれています。『紀伊続風土記』は、お大師様が勧請したもので、ここで一山の魔障(ましょう)を祓ったことから祓川の名がついたと伝えています。
明治28年、児童公園のところに移され、昭和55年に今の場所に遷宮(せんぐう)したそうです。

(華苑Vol.13 平成15年4月1日発行より)
湯屋谷弁財天社
祓川弁財天社から東に200mほど歩くと、愛宕谷(あたごだに)交差点の傍らに湯屋谷(ゆやだに)弁財天社が建っています。
ここは壇上伽藍(だんじょうがらん)の西側に位置し、信号機のすぐ隣にある鳥居を潜ると境内はかなり広い。社は約70cm四方と少し小さめです。ご神体は八臂で頭上に鳥居と宇賀神をいただく宇賀弁財天だそうです。
この社もかつてはここから南の愛宕谷地区にあったそうです。『紀伊続風土記』には、愛宕権現社(あたごごんげんしゃ)と弁財天社を併記して、「湯屋谷の奥にあり。二社とも勧請の時代詳(しょう)ならず」とあります。湯屋谷は古い地名で、かつて湯屋(共同浴場)があったことからそう呼ばれました。近代になってから愛宕谷権現があったことから愛宕谷と呼ばれるようになりました。
高野山の古絵図をみると正保3年(1646)の図には社は見当たりませんが、元禄6年(1696)以降の図には社が描かれています。ご神体を納めた厨子(ずし)には享保2年(1717)7月の銘があることからも、湯屋谷に弁財天を勧請したのはこのころではないでしょうか。
古絵図をもとにかつての場所を訪ねてみました。愛宕谷地区の一番奥まったところに愛宕権現社はありました。その東側の小高い山の頂に弁財天が祀られていたことになります。今ではその場所を確認することはできません。ここも御殿川の支流のひとつで、谷は北へと流れ、愛宕谷交差点の辺りで合流しています。


丸山弁財天社
高野山の中央に位置し、南小田原(みなみおだわら)地区と弁天通(べんてんどおり)地区の間に通称丸山(まるやま)という丸いお椀を伏せたような小山があります。この山の頂上に丸山弁財天社が建ちます。
金剛三昧院(こんごうさんまいいん)の門柱近くの民家の脇に参道があり、三基の鳥居を潜りながら緩やかな参道を登ると、すぐ社に辿り着きます。
ここは、高野山の外八葉と呼ばれる山の一つ宝珠ヶ峰(ほうしゅがみね)より延びる尾根の一つで、社越しに御殿川を挟んで北側の業ヶ峰(ごうがみね)が見えます。このあたり一帯は、かつて小田原谷という地名で、幾つもの谷があります。中でも社の西側を流れる浄土院谷(じょうどいんだに)、東側を流れる湯屋谷、北側を流れる御殿川と、社はそれらを守護するように祀られています。
社は1m四方で、ご神体は『紀伊続風土記』によると、天女と十五童子(どうじ)で、お大師様が勧請したとつたえています。

(華苑Vol.14 平成15年6月1日発行より)
綱引(船引)弁財天社
総本山金剛峯寺の東側に道路を挟んで南都銀行高野山支店があり、その左脇に綱引(ふなひき)弁財天社がひっそりと鎮座します。
社は横約40cm奥行き約30cmとこじんまりとしています。社の前の立て札には「弘法大師が高野山御開創の時、その繁栄を祈って山内七ヶ所に祀られた弁才天の一つ。各々水源の位置に当たるといわれ、水に由来した綱引(または船引)と名づけられた。これを祈れば、福徳と智慧を得る」と書かれていました。ご神体は、蛇体に女人の顔の宇賀神だそうです。
以前は、銀行の裏庭に祀られていましたが、銀行の新築に伴い、平成2年にこの場所に遷宮されました。『紀伊続風土記』によれば、ここにかつて高福院(こうふくいん)という寺があり、船引弁財天はこの寺の鎮守社であったそうです。昔、高野山が食料に窮乏していたとき、弁財天が宝船を引いて降臨(こうりん)し、人々に食料を与えました。そのため高(幸?)福になったとして、この寺の名前がついたといいます。
『高野山古絵図集成(こえずしゅうせい)』を見ても高福院があったのは、今の南都銀行のところに位置し、創建以来、その場所をあまり移動していないことがわかります。しかし、どうしてここに弁財天を勧請したのか、ここが水源とどのような関係があるのかは不明です。


首途(門出)弁財天社
綱引弁財天社脇の覚法ヶ彎(かくほうがたわ・金剛峯寺東側の道)を北に進むと五の室(ごのむろ)地区に福知院(ふくちいん)があります。この寺の駐車場の西奥に杉木立に囲まれて首途(かどで)弁財天の小さな社が祀られています。
『紀伊続風土記』によれば、お大師様が入唐(にっとう)の時、海陸無難のために彫刻した尊天(そんてん)で旅行する者が旅の安全を祈ると必ずご利益があるため門出弁財天という、とあります。
『紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)』にも同じことが記述されています。伝承によれば、高野山にかつて大きな龍がいて、とぐろを巻いていたのをお大師様が調伏(ちょうぶく)し、鎮めました。龍の頭の部分がこの社のある場所だともいわれています。
社は約70cm四方、ご神体は秘仏中の秘仏で、この社を管理する住職でさえも姿を見たことがないそうです。社の右側に立つ石燈籠に「奉寄進辯才天女燈籠極楽堂尭實建」と刻まれています。ここはかつて極楽堂平等院(ごくらくどうびょうどういん)という寺があり、首途弁財天社があったことを物語っています。
ここは、弁天岳を源流とする川の一つが一心院谷(いっしんいんだに)を流れ、この首途弁財天社の前を流れます。また近くを光台院谷(こうだいいんだに)が流れ、社の東側で合流します。

(華苑Vol.15 平成15年7月1日発行より)
剣先(尾先)弁財天社
綱引弁財天社を少し東に行くと、徳川家の菩提寺(ぼだいじ)の蓮花院(れんげいん)があります。この寺の裏山に剣先(けんさき)弁財天社が鎮座します。
裏山を借景にした庭園に、細い小道があり、登ると山頂に剣先弁財天社の小祠が建っています。ここは弁天岳から続く尾根の先端に位置し、お大師様が著した、『高野山四至敬白文(こうやさんしじけいびゃくもん)』(『遍照発揮性霊集〈へんじょうはっきしょうりょうしゅう〉』)に「山の状(かたち)為(た)らく、東に龍の伏せるがごとくして東流の水有り」と表現されているように、この尾根は龍が臥している形に例えられています。
また、ここは、社の南側を東へと流れる御殿川と、東側を北から南へと流れる千手院谷(せんじゅいんだに)が千手院橋で合流するところで、川を見下ろすことができる場所でもあり、まるで川を守護しているかのように見えます。
社は約70cm四方、ご神体は二臂の女尊で、右手に如意宝珠(にょいほうしゅ)、左手に太鼓を持ち、剣を背負うという珍しい姿をしています。経軌(きょうき)にこのような姿がないことから、感得(かんとく)によって産まれたものではないかといわれています。
高野七弁天の一つに数えられながら、弁天社にまつわる謂れや伝説などを表した文献がなく、詳しいことがわかりません。ただ、『高野山古絵図集成』を見る限り、社が確認できる最も古いものは宝永3年(1706)の絵図で、かつてこの場所にあった覚證院(かくしょういん)の裏山に社のみが描かれています。また、寛政8年(1796)の古絵図には、描かれた社の右側に「弁天」とのみ記されていて、以前から剣先弁財天社がここにあったことがわかります。


尾先弁財天社
千手院谷にある一乗院(いちじょういん)山門の向かって右側に小さな尾先(おさき)弁財天社が祀られています。これは、昭和30年ごろに剣先弁財天社の遥拝所(ようはいしょ)として分祀(ぶんし)されたもので、剣先弁財天と同じ姿のお札がご神体として祀られているそうです。


おわりに
七弁天を訪ねてみて、どれも個性のある弁天でした。秋の大祭には大々的に餅撒きをするところや、地元の人にもほとんど知られていないところなど様々です。
水源となる場所に祀られながら、時代とともにその場所を移動したり、川をコンクリートで蓋をし、アスファルトの道路が通って、往古の姿を見ることができなくなてっきています。しかし、社を守り、次世代に繋げる信仰心だけは、昔と変わりなく続いているような気がします。

〈華苑Vol.16 平成15年8月1日発行より)
大門の左脇に立つ嶽弁財天社の鳥居。山頂まで約1km。ちょっとしたハイキングコースとなっていいる。
弁天岳の山頂に建つ嶽弁財天社。秋には盛大な祭典が催される。
祓川弁財天の鳥居。公園を挟んで山の中腹に社が建つ。
祓川弁財天社は公園を見下ろす高台にあり、子どもたちの遊び場となっている。
湯屋谷弁財天社の鳥居は、愛宕谷の交差点の信号機のすぐ隣に立つ。
湯屋谷弁財天社の境内は広く、北の端にひっそりとたたずむ。
通称丸山の山頂にある丸山弁財天社。この山を遠くから眺めると丸くなっている。
銀行の敷地内に立つ綱引弁財天社。駐車場に隣接しているので、鳥居の前ぎりぎりに車が止まることもある。
福知院の参拝者用駐車場の奥に首途弁財天社がある。目立たないためかあまり知られていない。
首途弁財天社を管理する福知院。
徳川家・松平家の菩提寺である蓮花院。
蓮花院の裏山に建つ剣先弁財天社。
剣を背負う珍しい姿をしている剣先弁財天。
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